モリ*ラボの日々是好日♪
頼まれ物を作ります。渡す人のことを思って作ります。 『それ』を渡す時、一番ドキドキワクワクします。受け取った人が初めて『それ』を目にした時、嬉しい顔をしてくれた時、 私にもその喜びが返ってきます。そんな心のやりとりを『モノづくり』を通して感じていたいです。
祖母の人生
- Posted at 2009.10.17
- l未分類
10月13日、午前10時10分。
祖母が急性心筋梗塞で98年の人生に幕を下ろしました。

正確には満で98年と8ヶ月、数えで99歳。
いわゆる白寿でした。
いつもと同じような朝を過ごし
背中が痛いと言って横になってから
ほんの数分の出来事だったようです。
祖母は明治44年2月7日にこの世に生を受け、
明治・大正・昭和・平成と激動の時代を生き抜き、
その生涯の中で、たくさんの出会いと別れを重ねてきました。

二十歳の頃、曾祖母が脳梗塞で寝たきりとなり
祖母は長女ということもあって、5年間ほど
一心に看病したと聞いています。
太平洋戦争真っ只中だった昭和20年3月、
大阪を大空襲が襲い、大阪市西区に身を置いていた
祖母の生活も深刻な打撃を受けました。
祖父と一緒にまだ小さな子供達3人を連れ、
焼夷弾で空が真っ赤に燃える中
身内を頼って茨木市まで歩いて疎開したそうです。
その後2人の女の子を授かりましたが、
戦後の物もお金もない厳しいなか、はしかをこじらせ
幼いうちに2人ともを亡くしてしまいました。

40歳から50代半ばまでの間、会社にも勤務し、
責任感と精勤さをかわれ、グループの責任者も任されていた祖母。
会社からもらった表彰状が自慢で、その話題がでると
必ず引き出しの奥から引っ張りだしてくるのでした。

60代前半で、夫である祖父を亡くします。
80代後半で、まだ64歳の長女を亡くしました。
私達と大阪で同居してた祖母は
和歌山の病気の伯母の所まで車で5、6時間かけて
何度か往復していたように記憶しています。
伯母の葬式で、肩を震わせて突然泣き出した祖母を
今でも鮮明に覚えています。
弱音をはくことを知らなかった祖母の・・・
私が見た最初で最後の涙でした。

2人の息子と3人の娘。
その内、娘を3人とも自分より先に亡くすという祖母の気持ちは
私には計り知れません。
元気な時は、いつも眉をキッチリと描くキレイな祖母でした。
「何かのついでに、いつものヤツ買うてきといて。」
眉墨の芯がなくなったら、いつも使いに出されるのは私。
歳を取っても、健康でどこへでも歩いていけるというのが
祖母の自慢のひとつでもありました。
そんな祖母が5年前、転倒が原因で大腿骨を骨折。
医者には寝たきりを覚悟するように告げられていた家族。
それでも祖母は手術の翌日から辛いリハビリに励み、
杖をついて歩くまでに回復しました。
翌々年、今度は反対側の大腿骨を骨折。
それでも歩行器を使って歩くところまで回復しました。
周りに迷惑をかけたくなかった
祖母の強い強い意思の力だと思います。

とはいえ、体は年々老衰し
2度目の骨折の頃から、あまり話をしなくなり
目に宿る力も奪われていきました。
祖母がボーッとしている顔の前で
片手をパクパクとして見せると
祖母が『かもかも・・・』と言って、へへへと笑うのが
最近のお決まりのコミュニケーションでした。
人は亡くなる時、きっと
自分に縁のある人と人を結びつけて逝くのでしょうね。
家族、親戚・・・祖母が繋ぐ人々の絆を感じました。

お葬式に集まった人々から
私の知らない祖母の話をいくつも聞きました。
私は祖母が60代半ばで生まれています。
祖母の人生の重大な出来事はほとんど知りません。
祖母が体験してきたことは、私には到底想像がつきません。
それでも98年という、
長い長い人生を生き抜いた祖母は
強くたくましく立派であったと思います。

今はただ
不自由な体から自由になって
祖母が見送ってきた、たくさんの人に迎えられ
天国で楽しくへへへと笑っていることを祈ります。

おばあちゃん、おつかれさま。
ありがとう。

MORI*LABO
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あなたのご希望を添えてお気軽にご相談ください。
祖母が急性心筋梗塞で98年の人生に幕を下ろしました。

正確には満で98年と8ヶ月、数えで99歳。
いわゆる白寿でした。
いつもと同じような朝を過ごし
背中が痛いと言って横になってから
ほんの数分の出来事だったようです。
祖母は明治44年2月7日にこの世に生を受け、
明治・大正・昭和・平成と激動の時代を生き抜き、
その生涯の中で、たくさんの出会いと別れを重ねてきました。

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祖母は長女ということもあって、5年間ほど
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その後2人の女の子を授かりましたが、
戦後の物もお金もない厳しいなか、はしかをこじらせ
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私には計り知れません。
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それでも祖母は手術の翌日から辛いリハビリに励み、
杖をついて歩くまでに回復しました。
翌々年、今度は反対側の大腿骨を骨折。
それでも歩行器を使って歩くところまで回復しました。
周りに迷惑をかけたくなかった
祖母の強い強い意思の力だと思います。

とはいえ、体は年々老衰し
2度目の骨折の頃から、あまり話をしなくなり
目に宿る力も奪われていきました。
祖母がボーッとしている顔の前で
片手をパクパクとして見せると
祖母が『かもかも・・・』と言って、へへへと笑うのが
最近のお決まりのコミュニケーションでした。
人は亡くなる時、きっと
自分に縁のある人と人を結びつけて逝くのでしょうね。
家族、親戚・・・祖母が繋ぐ人々の絆を感じました。

お葬式に集まった人々から
私の知らない祖母の話をいくつも聞きました。
私は祖母が60代半ばで生まれています。
祖母の人生の重大な出来事はほとんど知りません。
祖母が体験してきたことは、私には到底想像がつきません。
それでも98年という、
長い長い人生を生き抜いた祖母は
強くたくましく立派であったと思います。

今はただ
不自由な体から自由になって
祖母が見送ってきた、たくさんの人に迎えられ
天国で楽しくへへへと笑っていることを祈ります。

おばあちゃん、おつかれさま。
ありがとう。

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